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Yasuko Piano Studio

奈良県生駒市 個人ピアノ教室

山中泰子ピアノ教室でございます。

当教室のホームページにお越しいただき

ありがとうございます。

生駒市本町、壱分教室と2箇所でピアノ教室を開いております。

●ピアノコース ●ソルフェージュコース

●音楽高校・音楽大学受験対策コース

●コンクールコース ●大人のピアノコース

〈本町教室〉

近鉄奈良線「生駒」駅より南へ徒歩3分

〈壱分教室〉

近鉄生駒線「菜畑」駅より南に徒歩12分

レッスン内容

指づくり♪耳作り♪ 

導入期は指づくり、耳作り、読譜、楽典など楽しいグッズや教材を使用してレッスンしています。 

お手玉、たまひもなど指作り強化グッズを使って、初歩の段階から、正しいタッチ、脱力などを指導しています。美しい音色、響きのある音で演奏できる生徒に育てます。 

褒めて育てるレッスン

褒めて育てるレッスンで、小さな「できた!」を積み重ね、大きな成功体験へと繋げることで、自信が持てるようになります。 

褒めて認めることで、自分はできるんだ!と自信が持てます。自信の種をいっぱい増やして、大きな実を結んでくれることを願っています。 

豊かな表現を育みます

音色の引き出しを増やし、豊かな表現を育みます。 

音の種類をたくさん持っていると、表情豊かな演奏になります。自分の気持ちを音で表すことができるような生徒を目指しています。 

読譜力と音感を!

ソルフェージュのグループレッスンで、読譜力をパワーアップ!音感も身に付きます。 

月に一度、聴音、視唱、リズム、楽典を集中してレッスンしています。音感がつくと、演奏上達との相乗効果があります。 



希望者には、コンクールに出場する機会を設け、更なるレベルアップに繋げます。

より深く曲を理解し、追求することによって、大きな成長へとつながります。

一つのことに打ち込んで頑張った経験は、今後の人生を豊かにしてくれることでしょう。

教室紹介動画


講師紹介

●プロフィール

相愛大学[沙羅の木会]奈良県副支部長

奈良県音楽芸術協会常務理事

生駒音楽芸術協会副会長

 

全日本ピアノ指導者協会(PTNA)指導会員

●この子、ピアノが好きなんやないか?

奈良県生駒市に生まれる。両親が共働き、保育園に通っていた。家には祖父母とお手伝いさん。父は当時、大学の体育科助教授だった。母が飲食店を家の近くで経営していたため、従業員が家にいつも出入りしていた。兄がいたが、よく両親に怒られる兄。自分は怒られまいと、いい子でいようと努めた。じっとおとなしく過ごしていることが多かった。家に人は多かったが、皆忙しく遊んでくれる人はいなかった。ストレスと寂しさから、よく情緒不安定になり荒れることもあった。おもちゃはほとんど買い与えられず、絵本を読むか小さなグランドピアノ型のおもちゃで遊んでいた。当時のコマーシャルソングを耳で聞いて、おもちゃのピアノで弾いて遊んでいた。そんな私を見た母は「この子、ピアノが好きなんやないか」と思い、家から徒歩30秒のヤマハ音楽教室の幼児科に、4歳から通うことになった。ヤマハのカバンを持っている年上の女の子にあこがれた。もともと家に古いオルガンがあった。母もレッスンに付き添ってくれたが、母の店が忙しいときは一人でも通っていた。アンサンブルをするのは楽しかったが、幼児科の内容に物足りなさを感じ、5歳で幼児科修了とともに、個人の先生に変わることになった。

 

●幼くして専門の先生へ

個人のピアノの先生は、奈良市在住で東京藝大出身の年配の先生だった。基本的には音高、音大の生徒のみのレッスンをされていて、子供の指導はされていなかったが、ちょうどその先生の教え子の娘が習い始めたタイミングと重なり、一緒に教えてあげるわよと、特別に門下に入った。電車で15分、歩いて20分の遠方だった。1回8000円のレッスン料。レッスンでは、厳しくて怖い先生だった。音高の学生さんを教えているときは、それはそれは怖くてみんなから恐れられていたが、私たちは子供だということもあって、それほどまでには怖くなく、「やすこちゃんは耳がいいわね」と褒めてくださり、親身になって熱心に教えてくださった。毎週日曜日の10時から、友達と一緒に2時間。お弁当を持参してのレッスンだった。お弁当は先生の分も持っていかなければならなかった。家が寿司屋だったため、お寿司を持って行っては喜ばれた。腕はいいが私生活はだらしない先生で、10時に行っても寝ていることもしばしば。家の掃除は大人の教え子にさせていた。まさに内弟子。「お中元は現金で」など、びっくり発言も多かったが、カリスマ性のある先生だった。

 

●おとなしい少女時代

保育園から同じ小学校に入った子が少なく、低学年の内は友達がほとんどいなかった。自分からガンガンいける性格でもなく、引っ込み思案だったため、クラスでも目立たない存在。よく授業中に「おなかが痛い」と言って保健室に行っていた。ピアノの練習をするのは好きだったが、母に付き添ってもらいたがった。譜読みが遅く、新しい曲に取り掛かるのは苦手だったが、一度弾けるとすぐに覚えた。母に褒めてほしくて、練習も頑張った。何時間も練習する日もあった。

 

●グランドピアノがやってきた

10歳の時、家を建て替えることになった。築50年ほど経った、木造の傾きかけた家だったが、鉄筋コンクリートの3階建ての家に父と母が建て替えてくれた。その頃はアップライトピアノで練習していたが、ちょうどピアノの先生が「教材も進んできたしそろそろグランドピアノに変えたら」と言われて、家の完成ののち、自分の部屋にグランドピアノが来ることになった!それまでは自分の部屋すらなかったのだが、家と同時にグランドピアノが来て、まさに夢心地だった。ピアノの選定は、先生と一緒にショールームに行って、先生が「これがいいんじゃない」と言われたピアノを母が購入してくれた。当時生産が終わりかけていた、象牙の高級なピアノだった。

 

●相愛学園子供の音楽教室へ

ピアノの先生の勧めで小4から相愛学園子供の音楽教室に入ることになった。音楽の英才教育。毎週土曜日ソルフェージュ2時間、合唱2時間のレッスン。学年で3つにクラス分けされるのだが、聴音や歌が得意だったため、毎年トップクラスに在籍していた。年に2回のピアノ実技試験があり、エチュード、バッハ、課題曲など、小学生なのに常にピアノのテストに追われているような感覚があった 周りは上手な子ばかりで、この環境が私にとっては良かった。

 

●モテ期

そのころから、学校でも「ピアノが上手くて走るのが速い女の子」と目立つようになった。父は国体に出場したこともある体操選手だった。父親の血を引いてか、走ることが好きだった。クラスでは男子より早く、1番だったためリレーの選手にも選ばれ、常にトップバッターかアンカーだった。当時は、走るのが早いというだけでモテる時代。 女子にも男子にもかなりモテた。高学年になるとピアノでも伴奏を頼まれることが多くなり、さらにモテ期が続く。私の中の黄金時代だった。自分は人に必要とされていると思う場面が多くなり、少しずつ自信が出てきた。友達も増え、楽しくて仕方がなかった。

 

●恩師との別れ、そして出会い

一方、ピアノの先生が病気がちで、レッスンをしてもらえない日が続いた。とても指導力のある先生だったので母も悩んでいたが、このままでは娘のためによくないと思い、その先生のもとを離れることになる。音楽教室の室長に、奈良の別の先生を紹介してもらった。前の先生とは対照的な、やさしくて穏やかな先生だった。この吉川先生が相愛学園出身だった とにかく優しくて穏やか 上品で物腰も素敵だったが、 何よりも自分のことを褒めて励ましてくれた この後中学時代一旦ピアノが停滞するも、吉川先生だったから続けられたと 言っても過言ではない

 

●暗黒時代のはじまり

小学校を卒業後は、線路の北と南で中学校の校区が分かれた。仲の良い友達が、ほとんど隣の中学に行ってしまった。友達との別れ。新しい環境になじむのが苦手だった。中学は、隣の小学校の卒業生と合併だった。また知らない人の中に入っていかなくてはいけない。隣の小学校の子供たちは皆、自分より大人びて見えた。

運動が好きだったので、部活はハンドボール部に入ることにした。父も応援してくれた。ハンドボール部は当時その中学で一番厳しいと聞いていたが、先輩たちがやさしく勧誘してくれた。だが入部した途端、手のひらを反すかのように厳しい上下関係。先輩たちの気分で「ノック」というしごきもしょっちゅうされた。心身ともに疲れ果てていた。14人いた新入生がどんどん退部。 8人になる。日曜日以外、ぎっちり練習。しょっちゅう大会があり、大会前の日曜日はもちろん練習。ピアノの練習時間が激減する。相愛の音楽教室に通っていたため、毎週土曜日は部活を休まなくてはならなかった。先輩ににらまれる。部活でのポジションも低いままだった。学校全体が荒れていて、タバコ、いじめ、学級崩壊、窓ガラスもよく割れていた。問題が多い中学だったが、部活の友達とはまだ分かり合えていた気がする。

クラスには心から解りあえる友達はいなかった。部活を辞めたら、学校での居場所がなくなってしまう。土曜日に部活を休むというのは、その部では考えられないことだった。部活での立場がなくなりそうになるのが耐えられなくなり、中1の冬にとうとう音楽教室を辞めてしまうことになる。2年生になって、部活のレギュラーを得ることができ、県で2位になったこともあったが、ピアノの方はほとんど練習ができなくなり、週末にまとめて弾く程度だった。

 

●優しい吉川先生、そして決意

ピアノの吉川先生は、練習ができていなくても、怒ることはなかった。中1春から中3の夏に部活を引退するまで、そんな状態が続いた。それでも先生は優しく見守ってくれた。部活を引退して、進路のことを考えるようになった。公立の高校へ行けば、同じ中学の生徒と必ず一緒になる。悪夢が続くことになる。環境を変えたかったのもあった。そして何より、物心ついた時から自分は音楽の道に行くんだと思っていた。吉川先生は、相愛高校の音楽科でもピアノ実技指導をされていた。しかも、出身も相愛高校音楽科だった。先生は当時の私の憧れだった。相愛に行けば、先生みたいになれるかもしれない・・・。そう思い、相愛高校音楽科受験を決意した。

 

●音楽の道へ

部活をしていたため、他の受験生より遅れを取っていたと思う。ソルフェージュ全般は相愛学園音楽教室で超難問をやりまくっていたのでほとんど問題はなかったが、音高受験を決めてからは、毎週ソルフェージュ、楽典のレッスンも通った。あとは実技を頑張ればよかった。またピアノの練習に本腰が入る日々が続き、本番まで順調に進んだ。

●強度のあがり症

試験曲は、スケールとアルペジオ、バッハ、ソナタとかそんなだったと思う。中1まで音楽教室で定期的に試験もこなしていたので、自分では「まあいけるやろ」ぐらいにどこか舐めていた。練習もしてはいたが、詰めが甘かったのだろう。試験当日、ふと周りを見ると、受験生たちは堂々としており、余裕綽々に見えた。他の受験生の漏れ聴こえてくる演奏に焦りまくった。どうしよう、ヤバイ。緊張がMAXまで達した。スケールとアルペジオは、試験会場でくじを自分で引いて調を決める。A-durとb-mollか何かだったと思う。絶対に止まってはいけないアルペジオで、弾き直してしまった。1回じゃなかった気がする。そのままショックを引きずって、バッハやソナタも普段通りには弾けなかった。どう弾いたか覚えていないぐらいだった。終わってから(これ、あかんかったかもな・・)そんなことを考えていた。

帰宅すると母は心配して「どうやった?ちゃんとできた?」 「わからん・・・」 そのまま合格発表に。 合格発表の通知が来た 父が「来てるで。」 と渡してくれ、家族みんなが見ている中、開封。 入学説明会の文字が見えた。どっと家族がわき、みんなで喜び合った。 のちに、ギリギリで合格したことを知る 。

 

●再会に喜ぶも…

相愛高校音楽科に入学すると、相愛の音楽教室で一緒だった友達何人かと再会した。みんな、当時より実力がついていて、自分より下手だった子にも追い抜かされていた。その時になって初めて、中学生活で部活に打ち込み、ピアノの練習がおろそかになっていたことを悔やむ。授業の約半分は音楽に関する授業だった。演奏実技のほか、音楽史、音楽理論、作曲理論、和声法、ソルフェージュⅠ、Ⅱ、合唱など、専門分野を深く学べることは楽しかった。同じ目標を持って、仲間と切磋琢磨しながら学べる環境は、自分には合っているのと同時に有り難かった。

 

●こそ練

年に2回の実技テストがあり、課題曲が発表された日には一斉に当時の心斎橋YAMAHAや梅田のササヤに走った。楽譜が売り切れる前に買わなくては、と必死だった。試験前の練習室は取り合いになった。みんな練習をしていないような顔をして、かくれて猛練習をしていた。1、2年の頃は、実技では平均点を取るのがやっとで、それほど優秀ではなかったが、ソルフェージュの成績だけはいつも1番だった。聴音やコールユーブンゲンは好きだった。

 

●まさかの逆転

3年の卒業演奏に、リスト作曲の超絶技巧練習曲 第9番「回想」を弾いた。当時の自分にとっては難しかったが、それまで弾いた中で一番好きになった曲だった。この曲は、吉川先生が高3の卒業演奏で弾いて1番になった曲だった。先生は熱心に楽曲分析をしてくださった。練習にも力が入った。努力の結果と運が良かったのもあり、学年首席で卒業することになる。卒業演奏会のトリを務めることができた。

 

●大学生活

大学は、内申と面接のみの特別推薦で受験した。吉川先生の師匠である、尊敬する内田先生が教授でいらっしゃったため、そのまま相愛大学に進学した。他の大学への憧れもあったが、難しいと内田先生に一蹴されチャレンジすることをしなかった。

大学では、管楽器の伴奏をよく頼まれた。室内楽や伴奏は楽しかった。ソロとはまた違う魅力があり、勉強になった。

毎年、ポーランドショパンアカデミー教授のK.ギェルジョード氏の公開レッスンを受けた。最初に内田先生に「ギェルジョード先生の公開レッスンを受けたいのですが」と申し出た時には「もっと上手に弾けないと恥ずかしいわよ」と言われ、一生懸命練習してようやく受講の承諾を頂くことができた。頑張った甲斐あり、選ばれた受講生によるコンサートにも出演することができた。

 

●クラシックの本場で

大学3年の春に、友達に誘われドイツに2週間のアカデミーに参加することになった。人生初の海外だった。ヴァイマーのリスト音楽院で教授のレッスンを受講し、現地の学生との親善コンクールで奇跡的にも第3位を獲得することができた。カールスルーエ大学のヴァイオリン専攻の学生と協演したり、現地でコンサートに出演したり、本場の音楽に触れ、ドイツでの経験はそれまでの音楽観をがらりと変えるものだった。

 

●新任の先生、そして卒業

 

大学4年の時に内田先生が退官されることになり、新しく赴任された東京芸大出身の当時30代の小坂准教授に師事した。小坂先生のレッスンは今までに受けたことのないような学術的なアプローチで、私にとって最初は理解するのが難しいものだった。しっかりと下準備をしないでレッスンを受けると、ピアノをほとんど弾かずに先生の講義でほぼ終わることもあり、落ち込んだ。小坂先生のレッスンについていけるように必死で勉強、練習した。卒業試験には、メシアンを弾いた。メシアンはそれまでに弾いたことが無かったが、小坂先生のご指導のおかげで、今までに取ったことのない高得点を取ることができ、ピアノ科58人中3位になった。全学年200人中13人しか出られない、いずみホールでの卒業演奏会に出演することができた。

 

●社会へ

卒業してすぐ、大阪市立南高校の非常勤講師となる。在学中にヤマハグレード4級を取得し、採用試験に合格、ヤマハの個人ピアノ講師も同時に始めた。グレードの勉強は働きながらも続け、演奏・指導3級を取得した。

 

●楽しい高校生指導、そして初めての経験

高校の授業はとにかく楽しかった。音楽選択者の授業ということもあり、歌うことや演奏することが好きな生徒たちばかりだった。授業前には歌いながら音楽室へやってきて、授業が終わると歌いながら帰っていく、かわいい生徒たちだった。生徒と年が近いこともあり、生徒には慕われ人気があった。もともと歌うことが好きなため、合唱の指導はやりがいがあった。講師でありながら、毎年校外の芸術祭に生徒80人を引率し、合唱で出演していた。初年度から吹奏楽の指導を任されることになった。吹奏楽は未経験だったが、発足して間もない部だったので生徒と一緒に学ぶぐらいのつもりでいた。ところが、4月始まって間もなく、部員が吹奏楽コンクールに出場させて欲しい、先生に指揮して欲しいと言ってきた。吹奏楽をしたこともないのにコンクールだなんて、、、と一旦は断ったが、生徒は引き下がらなかった。みんなの熱意に負けて、コンクールに向けて指導をすることになった。さすがに専門の知識もないので、大学の管楽器の先輩にアドヴァイスをもらったり、時々特別指導に来てもらったりしながら、なんとか課題曲を仕上げ、コンクールに出場した。初年度だし、地区大会敗退だろうと思っていた。結果は、優秀賞を受賞、初出場で府大会に進むことができた。

 

●ピアノ指導デビュー

ピアノ指導は、ヤマハで教える前の学生時代から自宅でも教えていた。最初は生徒1人から始まった教室だが、多い時で25名になった。指導3年目でバスティンに出会い、指導法セミナーにも定期的に通うようになる。

 

●芸術協会の理事に抜擢、演奏活動開始

高校非常勤とピアノ指導のほかに、生駒の音楽芸術協会に所属し、理事に抜擢される。地域に向けたコンサートの企画・運営などの活動をしながら、協会とは別で自身の演奏活動も定期的に行っていた。教会や神社、公民館や市民ホールなど、奈良、大阪、京都などでコンサートを開催することが多かった。声楽家とミニオケでミュージカル公演をしたこともあった。

 

●初のジョイントリサイタル、そして挫折

25歳の時、大学時代のフルートの先輩と、フランスから帰国した東京在住のピアニストと一緒にジョイントリサイタルをすることになった。フルートの先輩とピアニストはフランスでの留学仲間だった。今考えても、自分がその中の一人に入っているのが不思議だが、フランス帰りの演奏家のレベルは高く、アンサンブルをしていても自分自身が高められるのが分かった。

リサイタルでは、ピアノソロの他、フルートとのデュオの曲や連弾も取り入れた。ソロのメインには、ショパンのバルカローレを弾くことにした。自主公演だったので、準備からすべて自分たちでやらなければならず、演奏以外の作業も多かった。東京在住のピアニストに、自宅に泊まってもらう準備までしていた。自宅のピアノを相手の練習用に提供したり、自分のことは二の次になっていた。そんな風に、直前までバタバタしていたためか、肝心のソロの本番で大失敗をしてしまう。悪い上がり癖が出てしまった。どうにか最後までたどり着いたものの、普段の10分の1しか発揮できないような情けない演奏だった。

 

母の存在

全てが嫌になった。こんなに頑張ったのに…、こんなに練習したのに…。大事な本番だったのに…。取り返すことは出来ない。いい大人なのに、声を上げて涙が枯れるほど泣いた。

そんな私を見て、母はずっと寄り添ってくれた。「やっちゃん、頑張ったやんか。ほんまによおやったよ。もう泣きな…。な、また次がんばったらええやんか」母は、私の演奏を一番に応援してくれた。私が失敗したことで、自分の事のようにショックを受け、気を落としたに違いない。でも、私を励ましてくれた。母の存在は本当にありがたかった。

 

●恩師の励まし

ジョイントリサイタルが終わってからも、まだ立ち直れずにいた。

そんな時、プレゼントが届いた。恩師の吉川先生からだった。演奏会にも聴きに来てくださっていて、私が落ち込んでいるのはご存じだった。中には木製のフォトフレームとメッセージが。「諦めず、続けていってね」そんなことが書かれてあった。先生に申し訳ない気持ちと同時に感謝の気持ちでいっぱいになった。

 

●結婚、そして出産

大学を卒業して10年目で、ようやく結婚。翌年に長男を出産する。その際に、10年間勤めた大阪市立南高校とヤマハを退職、産休後は自宅で育児をしながらのんびりレッスンをする生活になった。

 

●声楽を学び始める

出産後、芸術協会の会長であり声楽家の山村先生に、声楽の勉強を勧められる。「あんた、ピアノより歌の方がセンスあるかもしれへんな」などと言われ、レッスンに通うようになる。声楽はピアノのような練習量は必要ないが、体の使い方はすぐに忘れてしまう。もともと歌好きでとにかく歌うことが楽しく、毎週レッスンに通い、市民コンサートなどでオペラを歌うまでになった。声楽を始めたことで、ピアノの演奏にいい変化が表れた。声楽はピアノでの息づかい、フレージングの勉強に大変役立った。

 

●運命の出会い

ある演奏会で、仲間のソプラノの方の演奏を聴きに行った。その方の伴奏者の演奏に釘付けになった。バラの匂いが漂ってくるような艶のある魅力的な演奏だった。私もこんな演奏がしてみたい!この先生に習いたい!!そう思って、その日の内にすぐに連絡先を教えてもらい、レッスンのお願いをした。先生は快く引き受けて下さった。

その先生は高校卒業後オーストリアの音楽大学を出ておられ、ヨーロッパの大学でもピアノ指導をされているほどの腕前の先生だった。今まで受けてきたどのレッスンとも違っていて、本質を見抜くことができ、かつとても興味深く分かりやすいレッスンだった。

ボディーマッピングについても教えて下さり、体の事を考えると本番でも不思議と緊張しなくなった。岩城先生に出会ってからは、本当に表現したいことができるようになってきたことには、自分でも驚いている。

 

●スタインウェイお披露目演奏会プロデュース

生駒市に、市民の篤志家の方からの多額の寄付があり、その方の希望でスタインウェイD-274が生駒のたけまるホールに寄贈されることになった。生駒市から生駒音楽芸術協会に、スタインウェイお披露目演奏会の企画・運営を委託された。私はその頃から芸術協会の副会長を務めており、演奏会のプロデュースを任されることになった。

 

 

試弾会から始まり、コンサートには市内の若手ピアニストの演奏と、特別ゲストには恩師で85歳現役ピアニストの内田朎子先生を招いた。私自身も、ショパンの幻想ポロネーズを演奏し、師匠と同じ舞台に立つという夢が実現した。会場は1000人の聴衆で埋め尽くされ、華々しく終演を迎えた。